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昭和7年(1932年)、東京ゴルフ倶楽部が移転してくることがきっかけとなり、膝折村は町制施行し、朝霞町となりました。
朝霞町役場の上棟式(昭和7年)
やがて、戦時色が強まる中、陸軍予科士官学校や被服廠などの軍事施設が市内に移転してきました。
昭和20年(1945年)に終戦を迎えると、こうした軍事施設にアメリカ軍が進駐し、キャンプ朝霞がつくられました。この後、約30年間にわたり、朝霞は基地の町として歩むことになりました。
当時のキャンプ朝霞
昭和35年(1960年)には自衛隊が駐屯することになりましたが、一部でアメリカ軍基地としての機能が残っていたこともあり、基地返還要求運動が盛んとなり、昭和49年(1974年)にキャンプ朝霞のほとんどが日本に返還されることとなりました。
その後、日本の高度経済成長の影響などもあり、朝霞は東京のベッドタウンとしての都市化が進み、急激に人口が増加していきました。
昭和48年(1973年)の石油ショックなどの経済的な影響もあって、人口の増加は緩やかになったものの、現在でも増加傾向は続いています。
昭和51年(1976年)に完成した浜崎団地
昭和42年(1967年)3月15日、県下27番目の市として市制施行しました。当時、5万6千人余りであった人口は、令和2年(2020年)3月現在、約14万2千人弱となっています。
市制施行の祝賀記念アーチ(朝霞駅前)
返還後のキャンプ朝霞の跡地には、小・中学校をはじめ、公民館や図書館、体育館や陸上競技場などの公共施設が整備され、市民の文化・スポーツ活動の場として利用されています。令和2年(2020年)2月にはシンボルロードが整備され、憩いの場・交流の場としても発展していくことでしょう。
鉄道では、昭和48年(1973年)に国鉄(現在のJR東日本)武蔵野線の開通とともに北朝霞駅が開設され、その翌年には東武東上線に朝霞台駅が開設されたことで、北朝霞駅・朝霞台駅が乗り換え駅となり、周辺地域の発展に大きな影響を与えました。また、近年では、東武東上線への複数路線の相互乗り入れが始まり、ますます利便性が高まっています。
昭和59年(1984年)に始まった市民まつりは、平成7年(1995年)から「彩夏祭」の愛称で呼ばれ、朝霞の夏を彩るイベントとして多くの人でにぎわいます。これからも多くの市民に愛され、鳴子踊りをはじめとした朝霞の新しい文化の1つとして、受け継がれていくことでしょう。
平成7年に始まった彩夏祭
昭和7年(1932年)に「朝霞」という名前がつき、昭和42年(1967年)の市制施行から50年たった平成29年(2017年)に、朝霞市は市制施行50周年を迎えました。
これからの朝霞市は、「むさしのフロントあさか」をキャッチフレーズに、自然と利便性がバランス良く調和したまちを目指していきます。