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ふるさと朝霞の歴史(7)鷹場と川越街道

鷹場と川越街道

戦乱の時代が終わり、江戸に幕府が開かれると、朝霞周辺は幕府領(天領)と旗本領として支配されるようになりました。

旗本は自分の知行地に陣屋を築き、直接支配していましたが、江戸が城下町として整備されていくと、江戸の屋敷に住むようになり、旗本と村々との交流は次第に薄れていきました。天領は、幕府の代官によってまとめて支配されました。
また、朝霞周辺には、将軍が鷹狩りを行う御拳場と、尾張藩の鷹場とが置かれました。鷹場の村々には様々な規制がかけられ、そのことが村の負担にもなりました。

朝霞市内では、台村、根岸村、岡村が御拳場となり、膝折村、溝沼村、浜崎村、田島村、宮戸村、上内間木村、下内間木村が尾張藩の鷹場となりました。これらの村には、鷹場の境界を示す杭が建てられ、その一部は現在も残っています。

浜崎氷川神社に残る鷹場の境界を示す石杭
鷹場の境界を示す石杭(浜崎氷川神社)

朝霞は鷹場が置かれるほど、自然豊かな土地で広大な林野がありました。こうした林野は「秣場」と呼ばれ、薪などの燃料、草を利用した肥料、建築の材料などを得る供給源として、村の中で、あるいはいくつかの村で、共同利用されていました。しかし、新田開発が盛んに行われるようになると、秣場は田畑に姿を変えていくとともに、減少していく秣場の利用を巡って、村と村の間で争いになることもありました。

また、江戸時代には、江戸と川越を結ぶ川越街道が、中山道の脇往還として本格的に整備されました。現在の膝折町に、江戸から4番目の宿場として膝折宿が置かれ、旅人がさかんに行き交っていました。こうした宿場を運営するために、宿場がある村や周囲の村々には、人夫や馬を提供するなどの負担が強いられました。時代の経過とともに次第に交通量が増加したため、宿場の負担は重くなり、宿場に人馬を提供していた助郷の村々の負担も大きくなり、しばしば争いの元となりました。

根岸台の旧高橋家住宅

江戸時代中期の農家・旧高橋家住宅(国指定重要文化財)

朝霞市域のように、江戸の近郊に位置した農村は、大消費都市・江戸の供給源として、発展・展開していきました。

現在の根岸台地区には、江戸近郊の武蔵野台地上の農村である根岸村・台村があり、新河岸川の舟運を利用して江戸に野菜を出荷するなどしていました。根岸台2丁目の「旧高橋家住宅」は、江戸時代の中頃に建てられた、村の中でも平均的な農家の1軒で、国指定重要文化財に指定されています。