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ふるさと朝霞の歴史~鷹場と川越街道

鷹場と川越街道

 江戸に幕府が開かれると、朝霞周辺は、幕府領(天領)と旗本領として支配されました。当初、旗本は自分の知行地に陣屋を築き、直接支配していましたが、江戸が城下町として整備されていくと、江戸の屋敷に住むようになり、旗本と村々の交流は薄れていきました。天領は、幕府の代官によってまとめて支配されました。
 さらに朝霞周辺は、将軍が鷹狩を行う御拳場と尾張藩の鷹場となりました。鷹場の村々には様々な規制がかけられ、村々の負担となりました。市内では、台・根岸・岡が御拳場に、膝折・溝沼・浜崎・田島・宮戸・上内間木・下内間木が尾張藩の鷹場に設定されていました。こうした鷹場の村には境界を示す杭が建てられました。

境界を示す杭(浜崎氷川神社に残る鷹場の境界を示す石杭)
境界を示す杭(浜崎氷川神社に残る鷹場の境界を示す石杭)

 一方、朝霞は鷹場が置かれるほど、自然豊かな土地で広大な林野がありました。こうした林野は、秣場と呼ばれる肥料や燃料、建築材料の供給地として共同利用されていました。しかし、享保の頃(1716~1735)になると、新田開発が盛んに行われ、畑に姿を変えていきました。
 また、江戸と川越を結ぶ川越街道も中山道の脇往還として整備されました。そして、江戸から4番目の宿場として、膝折宿が置かれました。宿場には、本陣や脇本陣がありました。しかし、次第に交通量が増加したため、宿場の負担は重くなり、宿場に人馬を提供していた助郷の村々の負担も激しいため、しばしば争いになりました。

脇本陣(川越街道沿いに残る膝折宿の脇本陣)
脇本陣(川越街道沿いに残る膝折宿の脇本陣)