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古墳時代に日本へ仏教が伝わり、奈良時代になると地方にも仏教が広まりました。地方の有力者たちは、古墳に替わる新たな力のシンボルとして、独力で寺院を建立しました。
平安時代中頃になると、仏教の考え方の1つの末法思想に基づいて、各地に経塚が築かれました。経塚は、仏教の経典を未来へ残すことを目的として、書写した経典類を銅製の筒などに入れて、さらに陶器などに納めて土中に埋めたものです。
朝霞市内では、宮戸で2か所の経塚が発見されています。一つは明治12年(1879年)頃に発見され、銅製経筒などが出土しています。もう一つは昭和32年(1957年)に畑の耕作中に見つかったもので、銅製経筒のほか、経筒の蓋に使われていた和鏡、常滑製のかめ、鉢などが出土しており、現在は「宮戸薬師堂山経塚出土経筒及び外容器」という名称で埼玉県指定有形文化財になっています。
経塚を築くためには大きな財力が必要であることから、朝霞周辺に相当な力を持つ有力者がおり、また、仏教が広まってきていたことがわかります。